1920年代、アメリカや日本の出来事をまとめてみました。
1920年代、アメリカ・日本史
1920年代は「狂騒の20年代」とも呼ばれ、消費文化が急速に発展した。
ラジオ、映画、自動車といった新しい技術が一般家庭に普及し、人々の生活様式が大きく変わった。広告業界も急成長し、消費者文化が広がった。
1920年
1920年、アメリカは第一次世界大戦の終結から回復し、社会と経済の両面で新たな時代の到来を感じていた。戦後の好況が続き、人々は未来に対して楽観的な展望を抱いていた。
一方で共産主義の台頭を恐れたアメリカでは、「レッド・スケア」と呼ばれる共産主義者や過激派への恐怖が広がった。政府は過激派の取り締まりを強化し、1920年には多くの移民が不法に追放された。同年、移民制限法も強化され、特定の国からの移民が厳しく制限された。
ジャズ音楽が全国的に人気を博し始めた年でもあった。ニューオーリンズからニューヨークやシカゴに広がったジャズは、若者たちの心をつかみ、新しい文化の象徴となった。
1月16日、アメリカ合衆国憲法修正第18条に基づいて禁酒法が施行された。アルコールの製造、販売、輸送が禁止され、全国的に違法取引と密造酒が蔓延した。この時代は「禁酒法時代」として知られ、アル・カポネなどのギャングが勢力を拡大した。
8月18日、アメリカ合衆国憲法修正第19条が批准され、女性の参政権が確立された。長年にわたる女性参政権運動の成果であり、女性が初めて全国選挙で投票できるようになった。これはアメリカにおける民主主義の大きな前進を意味した。
11月の大統領選挙では、共和党のウォレン・G・ハーディングが民主党のジェームズ・M・コックスを破り、第29代大統領に選出された。ハーディングは「ノーマルシー(正常化)」を掲げ、戦後の安定を求める国民の支持を集めた。
1921年
ジャズ音楽やダンスホールが若者の間で流行し続け、都市部では新しいライフスタイルが定着していった。また、映画産業はさらに成長し、ハリウッドは世界の映画制作の中心地としての地位を強固にした。
1920年代初頭から始まったハーレム・ルネサンスは、1922年にはさらに盛んになった。この文化運動はアフリカ系アメリカ人の文学、芸術、音楽における創造性を祝福し、アフリカ系アメリカ人のアイデンティティと文化の再評価を促進した。ラン・ルース、ズーラ・ニール・ハーストン、ラングストン・ヒューズといった著名な作家や芸術家がこの時期に活躍した。
日本では原敬首相の暗殺(1921年11月4日)という恐ろしい事態が起きました。
日本でも2022年に安倍さんが暗殺されており、いまだにこのような政治テロは続いているのが実情です。
原敬首相暗殺後、桂太郎が首相に就任し、桂内閣が成立しました。
1922年
1922年、アメリカ経済は第一次世界大戦後の復興期にあり、製造業やサービス業が成長を続けた。
しかし、一方で農業部門は依然として不況に見舞われており、多くの農家が経済的困難に直面していた。政府は農業支援策を講じたが、根本的な解決には至らなかった。
2月6日、ワシントン海軍軍縮会議の成果として、アメリカ、イギリス、日本、フランス、イタリアの5カ国が海軍軍縮条約に署名した。この条約は、各国の戦艦の建造を制限し、軍備拡張競争を抑制することを目的とした。これは第一次世界大戦後の国際的な平和維持への重要な一歩となった。
外交政策においても積極的な姿勢を見せた。アメリカは国際連盟には加盟しなかったものの、平和維持と国際協力を推進するために様々な国際会議や条約に参加した。
日本もワシントン会議で軍事力を制限されるなど、大きく影響を受けました。
10月25日にはシベリア本土から干渉軍を引き揚げ、日本のシベリア出兵は成果のまったくないまま終焉をむかえます。
1923年
アメリカ経済は引き続き成長を続けた。特に自動車産業と電気産業が急成長し、一般家庭にも広く普及した。ヘンリー・フォードの導入した大量生産技術により、自動車は一般市民にも手の届くものとなった。一方、農業部門は依然として困難な状況にあり、農作物の価格低迷が続いた。
労働運動は1923年も活発に行われ、労働者は賃金の引き上げや労働条件の改善を求めてストライキを実施した。また、女性の権利運動も続き、女性参政権の拡大や労働市場での平等を求める声が高まった。
1923年8月2日、第29代大統領ウォレン・G・ハーディングが心臓発作により急死した。大統領のカルビン・クーリッジが直ちに第30代大統領として就任した。
クーリッジはハーディングの政策を継承し、特に経済政策と企業支援を重視する姿勢を示した。
ラテンアメリカとの関係強化に努め、パンアメリカン会議での協力を促進した。また、ヨーロッパの戦後復興支援にも積極的に関与した。
日本では1923年9月1日11時58分、首都圏を関東大震災が遅い、未曽有の事態となりました。
12月27日には、皇太子・摂政宮裕仁親王が無政府主義者から狙撃を受けた暗殺未遂事件「虎ノ門事件」が発生しました。
1924年
スポーツとエンターテインメントがますます人気を集めた年でもあった。特に野球は国民的なスポーツとして定着し、ベーブ・ルースがニューヨーク・ヤンキースで活躍した。また、ラジオの普及により、多くの家庭でスポーツ中継や音楽番組が楽しまれた。
自動車産業は1924年にさらなる成長を遂げた。ヘンリー・フォードのT型フォードは大量生産によって価格が下がり、多くのアメリカ人が自動車を所有するようになった。これにより、都市と郊外の生活スタイルが変化し、道路網の整備が進んだ。
ダウ平均株価が大幅に上昇した。これは産業の発展と消費者需要の増加によるものであり、特に自動車、電機、ラジオ産業が好調だった。株式市場の繁栄は「狂騒の20年代」の象徴とされる。
1924年のアメリカ大統領選挙は、現職のカルビン・クーリッジが共和党から出馬し、民主党のジョン・W・デイビスと進歩党のロバート・M・ラフォレットと対決した。クーリッジは安定と繁栄を掲げ、圧倒的な勝利を収めて再選された。
5月26日、ジョンソン=リード移民法(通称:排日移民法)が成立した。この法律は、1921年の緊急移民制限法を強化し、アジアからの移民を禁止し、ヨーロッパからの移民も厳しく制限した。この法はアメリカの移民政策に大きな影響を与え、人種的・民族的な構成を変えるものであった。
日本では第二次護憲運動が活発化。加藤内閣が成立しました。
1924年7月には宝塚大劇場がオープン。宝塚少女歌劇団の人気が広まっていきました。
1925年
1925年は「フラッパー」の時代としても知られ、若い女性たちが伝統的な役割やファッションを捨て、短いスカートやボブカット、自由な生活スタイルを受け入れた。これは女性の社会進出と自己表現の一環であり、アメリカの文化に大きな影響を与えた。
フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』が出版され、狂騒の20年代の象徴的な作品となった。
アメリカでは商業航空が成長を続けた。飛行機の技術が進歩し、郵便や貨物の輸送に加えて、乗客の輸送も始まった。これにより、国内外の移動がさらに便利になり、ビジネスや観光の可能性が広がった。
カルビン・クーリッジが1924年の大統領選挙で再選され、1925年も彼の指導のもとでアメリカは繁栄を続けた。クーリッジは「サイレント・カール(静かなカール)」と呼ばれ、政府の小ささと経済の自由を重視する政策を推進した。
日本では東京六大学野球が発足。日本初のラジオ放送が開始されました。
政治では、普通選挙法が公布。その一方で治安維持法が制定されました。
1926年
1926年、アメリカ経済は依然として繁栄を続けていた。株式市場は好調であり、消費者文化がさらに広がった。特に自動車産業は成長を続け、フォードやゼネラルモーターズなどの企業が市場をリードした。
1926年11月11日、ルート66が正式に指定され、建設が開始された。このハイウェイはシカゴからロサンゼルスまでを結び、アメリカの交通インフラにおいて重要な役割を果たすことになった。ルート66は「アメリカのメインストリート」として親しまれ、後の西部開拓と移動の象徴となった。
1926年はラジオ放送が全国的に普及した年でもあった。NBC(National Broadcasting Company)が設立され、全国ネットワークのラジオ放送が開始された。これにより、音楽、ニュース、ドラマなどのラジオ番組が広範囲にわたって家庭に届けられるようになった。
ハーレム・ルネサンスは1926年も盛況であり、アフリカ系アメリカ人の文化的表現がさらに活発化した。ラングストン・ヒューズやズーラ・ニール・ハーストンなどの著名な作家や詩人が新しい作品を発表し、アフリカ系アメリカ人のアイデンティティと文化を祝う運動が続いた。
ハリウッドの映画産業はますます成長を続け、多くの新しい映画が制作された。この時期にはサイレント映画が主流であり、チャールズ・チャップリンやメアリー・ピックフォードなどのスターが人気を集めた。映画館は都市部だけでなく地方にも広がり、多くの人々が映画を楽しむようになった。
カルビン・クーリッジ大統領の下で、アメリカは経済政策の自由主義を維持し、政府の干渉を最小限に抑える方針を続けた。一方で、社会運動も活発であり、女性の権利や労働者の権利を求める声が続いていた。
日本では12月に大正天皇の崩御となり、昭和が始まることになります。
1927年
1927年、フォード・モーターが新しいモデルAを発表し、T型フォードに代わる新モデルとして大きな注目を集めた。自動車はますます一般家庭に普及し、アメリカのライフスタイルに不可欠な存在となった。自動車の普及は道路網の拡充やガソリンスタンドの増加にも繋がった。
10月6日、初のトーキー(音声付き映画)『ジャズ・シンガー』が公開された。この映画は、アル・ジョルソン主演で、サイレント映画から音声映画への転換点を示すものであった。トーキーの登場により、映画産業は劇的に変化し、エンターテインメントの新しい時代が幕を開けた。
5月20日、チャールズ・リンドバーグはスピリット・オブ・セントルイス号でニューヨークからパリまでの大西洋単独無着陸飛行を成功させた。33時間30分の飛行後、パリに到着し、彼は一躍国際的な英雄となった。この偉業は航空産業の発展と大衆の航空への関心を大いに高めた。
4月から5月にかけて、ミシシッピ川流域で大洪水が発生し、アメリカ史上最悪の洪水災害となった。数十万人が家を失い、被害は広範囲にわたった。この洪水は政府による防災対策の重要性を再認識させる出来事となり、後にニューオーリンズの洪水防止システムの強化などに繋がった。
日本では1927年3月から昭和金融恐慌が発生しました。背景には大戦景気の終了や関東大震災の震災手形の不良債権化などがありました。
ただきっかけは「東京渡辺銀行がとうとう破綻を致しました」という失言で一気に取り付け騒ぎがひろまりました。
1928年
1928年の大統領選挙は、共和党のハーバート・フーヴァーが民主党のアル・スミスを破って勝利した。フーヴァーは商務長官としての経験と、経済的繁栄をもたらすとの約束で広く支持を集めた。一方、アル・スミスはニューヨーク州知事としての実績があり、初のカトリック教徒の大統領候補として注目されたが、宗教的偏見も影響して敗北した。
1928年、アメリア・イアハートは女性として初めて大西洋を横断する飛行を成功させた。この業績により、イアハートは国際的な名声を得て、女性の権利と航空界における女性の地位向上に寄与した。
この年、普通選挙法による最初の総選挙が実施されました。
また、中国において張作霖爆殺事件が起きました。
1929年
1929年の初め、アメリカの株式市場は絶頂期にあった。投資家たちは株価が永遠に上がり続けると信じ、借金をしてまで株を買い続けた。
10月24日、株式市場は「ブラックサーズデー」として知られる大暴落を経験した。続く10月29日の「ブラックチューズデー」には、さらなる暴落が起こり、多くの投資家が破産した。この大暴落は大恐慌の始まりを告げ、経済は急速に悪化した。
1929年3月4日、ハーバート・フーヴァーが第31代アメリカ合衆国大統領に就任した。彼は選挙キャンペーンで「アメリカに貧困をなくす」と約束し、経済的繁栄をさらに推進する意図を示した。
大恐慌後、フーヴァー大統領は経済危機に対処するため、公共事業を通じた雇用創出や銀行の救済を試みたが、効果は限定的だった。多くの人々は政府の対応が不十分であると感じ、失望感が広がった。
1929年は、アメリカが経済的繁栄の頂点から急速に転落する年となった。株式市場の崩壊とそれに続く大恐慌は、国民の生活に深刻な影響を与え、アメリカ史における重要な転換点となった。
日本では浜口雄幸内閣が発足。協調外交と緊縮財政を柱としていました。
折からのアメリカの恐慌もあり、特に農村部では深刻な経済的困窮が広がりました。